「素直が一番!」って言うやつ全員シバく

「素直が一番!」って言ってくるやつをシバきたい人間のブログです。

そのとき歴史は動いた!←そもそも動かすのを邪魔してるやつが一杯いるんだよ

とあるお稽古にいってきた。

稽古。練習ではなく。演劇も稽古だ。剣道や柔道、相撲も稽古だ。座学学習ではなく、実践練習を基本にしている点が共通している。それから相手が必要なことも同じだ。

ちょっと調べると、「稽古」は『書経』の中に出てくる言葉で、古を稽へる(=考える)という意味らしい。へぇーえ。

2000年以上昔にできた言葉を今でも使っているというのは神秘とロマンがある。ネットは当然ないし、本だって高価で貴重で限られた人間しか読むことが出来なかった時代。「稽古」という言葉を知った人間はわずか一握り。ソイツが「稽古をしよう」とか言い始める。すると周りは「ケイコ? だれ?」となる。するとソイツが意味を説明し、周りが「そりゃあ良い言葉だ」と思って使い始める。繰り返し。そんな感じだろうか。

僕もネット用語で「バブみ」だの「エモい」だのを見て使ったりする。流行するためには言葉そのものの魅力が必要だ。ネット用語の隆盛は早いが、2000年以上使われた言葉っていうのは言葉それ自体の魅力が半端ないんだろう。まあ単に「稽古」に相当する単語がなかったから独占市場だったって可能性もあるけどね!

 

まあ前置きが長くなったが、とにもかくにも歴史あるもの・伝統を教授する/学習するってのはめんどくさい。何が言いたいかっていうと、その稽古、とにかく面倒だしオモシロイと思えなかった。

腕の角度はどうだの、手の形はどうだの、運びがどうだのタイミングがどうだの。しゃらくせえ!!!!!!!!!と声を張り上げたくなってしまった。

でも本当に言いたかったのは「どうして」だ。

一見非合理的で形式的にしか見えない動きにも、きっと理由はあるはず。「暗闇でも相手に伝わるために音を立てる」とかさ。「陰陽」でもいいよ。とにかく、なにしかしらの法則やルール、美学があるはずなんだ。僕はそれをトコトン聞きたかった。というか根掘り葉掘り聞いてやろうと思って稽古に赴いた。

ところがギッチョン。先生のお言葉は「まあ決まり事ですから」。そりゃねえだろうよオイ。

決まり事があるなら、その決まり事ができた背景があるはずだ。それを知りたいし、というか簡単な話、それを知らないとアホらしくてやる気が起きない。「廊下で走ってはいけません」という言葉だけで従うほど僕は素直な子ではなくなってしまった。「人にぶつかってケガさせるから廊下は走ってはいけません」。ここまで言わねえとわかんねえのかという声が聞こえてきそうだが、わかりません。でも言われたらわかりますし納得しますし走りません。ワガママでごめんちょ。

でも、先生の口ぶりも、他の生徒たちの姿勢も「これはこういうもの」と捉えているようだった。その疑問をすべて解決して納得しているのか、それとも先述の通り「走ってはいけません」を素直に「はい」としたがっているのか。僕には一瞥判断がつかなかった。

ちょっと話が矛盾するようだけど、「いいからやれ」「とにかくやれ」が真なることはかなり多い。今の僕には判断も納得もつかない事象は絶対にあり、何もわからずにやってやり続けて初めて「ああこういうことだったのか」と腑に落ちることもある。個人的には受験勉強とかそうだけどね。よかった~あそこで「なんで受験勉強なんてしなきゃいけないんですか」とか考えてなくて。絶対こじれてたよ。だから、疑問を持たずに従う姿勢ってのは間違っちゃいない。これは声を大にして言える。

でもよ!疑問を持つ自由とそれを口にする自由、そしてそれを知る自由があるのも事実だぜ!

「決まり事だから」で浮かぶ疑問を封殺するのは、ちょっと怖い。疑問を持つ、というスタンスを否定している。疑問を持たない姿勢は間違っちゃいないが、疑問を持つ姿勢を変えさせるのは間違ってると思うよ。だってそれは自由を侵害してるから。いぇー!俺は平成生まれ!平和と自由と平等を教えられ育った不況の子供!

大方の場合、「決まり事だから」の威力を担保しているのが歴史と伝統だ。ぶっちゃけ権威でいい。権威ゼロの僕が「今から女は全員下着で歩け。決まり事だから」って言っても誰も聞かない。でももしもこれが年収5兆円の国家元首のイケメンだったら? 聞かないなあ。じゃあ解散

スケールがでかすぎたけど、権威ってのは「エライ」ってことだよ。単純化すれば。そして「エライ」ってのは「自分より上」って意味だ。上の人に言われちゃ仕方ないよね。上の人は僕の生殺与奪を握ってるからね。下手したら本当に。

歴史や伝統というのは「エライ」。しかも否定できない偉さがある。人の偉さは功績で決まったりするけど、歴史の偉さは時間の量だ。2000年以上使われている稽古って言葉をスゲーって俺が思ったように、時間の量は覆せない。僕が50万歳とかならまだしもね。時間の重なりは人を含む。それだけたくさんの人が関わって守ってきている。だから僕が、稽古の先生を、その内容を蔑ろにするのはその途方もない人間たちへの侮辱にあたるのだ。

ここまで考えると被害妄想だろうけど、でも僕はそんな雰囲気を感じたんだ、一見非合理的な所作。それに浮かばない疑問。「決まり事だから」で済ます人。これに関しては僕はそっち派じゃない。まあ仕事が関わってるからだけどさ。でも、そういう盲目的なある種妄信的な時間への崇拝は、どこかで歪が生まれるのではなかろうか。それって何の意味があるんだよ、それって何でやらなきゃいけないんだよ。不良みたいな言い方だけど、疑問が浮かぶのはステキなことだ。そして口にするのは勇気がいることだ。文句でも。文句は誰にでも言えるなんて文句そのものを否定する人も多いけど、納得を求めて疑問を発したやつを口うるさいやつ認定する方が意地が悪いよ。ふん!

いろいろ書き連ねたけど、疑問を感じる姿勢は大事だ。そしてそれに答える姿勢も大切だ。「決まり事ですから」で済ますのはそれこそ誰にだってできる。なぜその決まり事ができたのかまで追求してこそじゃないの? 「誰も意見できる空気じゃなかった」って理由で見過ごされている世の中の不合理理不尽山ほどあると思うよ。だって座高計測意味ないって去年発覚してなくなったけど70年くらいやってたんだぜ!!!!??????あほかよ!!!??????!!!!だれか「これ意味あるの?」って言えよ!!!!!!!(もちろん言ってたと思うけどさ)

どうして?を繰り返してもしも理由や背景が見当たらなる壁にぶつかったら、そこで初めて美学になるんだよ。ボケ!!!!!!!

 

でもお菓子は、おいしかったよ。